ウラン採掘、原発・再処理等は過酷な被曝労働、多数の被曝労働者を必要としその犠牲の上に成り立っています。
日本の原発で被曝労働に従事した労働者は30万人規模に達しますが、その労災補償例は申請・認定数および疾病の種類が極めて少なく、被害は放置されています。
厚生労働省は「被曝限度を超えない被曝線量では健康への深刻な影響はない。」として離職後の健康管理とそのための健康管理手帳の交付の必要性を認めようとせず、また、被曝労働者の救済に役立てるために必要な労災申請と認定の結果に関する基礎資料の開示も拒否してきました。
表1は、これまでに確認されている原発・核燃料施設労働者の労災補償申請・認定の状況で、JCO臨界事故による急性障害3件を含めて、申請17件、認定9件です。
例えば、イギリスでは1986年から23年間に原子力施設労働者の補償申請は1200件、うち106件が認定されているのと比べると、日本の被曝労働者が放置されている事は歴然としています。
JCO事故以外で労災認定された疾病は2003年まで、白血病のみでした。
長尾光明さんの多発性骨髄腫 経過 資料
2004年1月に長尾さんの多発性骨髄腫が白血病以外で初めて労災認定されました。原発労働者が生きている内に労災認定された初めてケースです。
喜友名正さんの悪性リンパ腫
長尾さんに続き、みんなの力で勝ち取った 喜友名正さんの労災認定
2008年10月に喜友名正さんの悪性リンパ腫が労災認定されました。原発労働者で初めての悪性リンパ腫労災認定で、これまで白血病に限られてきた日本の原発被曝労働者の労災補償の狭い門をこじ開け、原発被曝労働者の被曝補償に更に一歩前進しました。 喜友名正さんは、1997年9月から2004年1月までの6年4ヶ月、各地の原発(泊、玄界、伊方、高浜、美浜、大飯、敦賀)、六カ所再処理工場で働き、2005年3月悪性リンパ腫により53歳の若さで死亡されました。喜友名正さんは当時の最も被曝線量が高い約100人に入る極めて過酷な被曝労働に従事していました。