原爆の開発と投下
1942年、マンハッタン計画により原爆の開発が開始され、1945年8月、広島にウラン型(爆発威力TNT16キロトン)が、長崎にプルトニウム型(爆発威力TNT22キロトン)が、それぞれ投下されました。
2つの都市は一瞬に破壊され、爆風、熱線、放射線で多くの命が奪われ、外傷のない人でも、その後短期間に死亡していきました。
原爆による被害は死者だけでも広島約14万人(±1万人)、長崎約7万4千人にのぼります(急性障害が収まったとされる1945年12月までの推定)。生き延びた人々も放射線による健康被害に苦しまされ、今日まで多くの人々が原爆症でなくなりました。
被爆者支援の法制度
原爆医療法(1957年施行)と原爆特措法(1968年施行)により、被爆者の認定(広島ではおおむね5キロ、長崎ではおおむね20キロまでの被爆)、被爆者健康手帳の交付、医療費自己負担の無料化、年2回の健康診断、原爆症認定者に対する特別手当の支給、特別被爆者への健康管理手当や介護手当の支給などが行われるようになりました。
1990年から被爆者健康管理手帳は終身使える手帳になりました。
1995年、原爆二法は被爆者援護法に統一されました。しかし政府は、ヒバクシャが長年強く求めてきた「国の戦争責任を認めた国家補償法」とすることを拒否し、そのまま今日に至っています。
核兵器の開発競争
第二次世界大戦後も冷戦の中で、核兵器の開発競争が進み、ついに巨大な破壊力を有する水素爆弾が開発されました。
長距離ミサイルなど核兵器の短時間の大陸間運搬手段が開発され、陸上のミサイル発射基地はもちろん航空機や原子力潜水艦などありとあらゆる核攻撃手段が実際に配備・運用され、世界のどこもが核兵器の恐怖にさらされる時代となりました。
冷戦期,核兵器廃絶に関する交渉が進まず,他方で核兵器の新たな取得を模索する国,あるいは核兵器を製造する潜在能力を持つ国が増えるなかで,まずは核兵器の拡散を防止することが核兵器の廃絶につながるとの考えのもと,核兵器不拡散条約(NPT:Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が、1968年に成立,1970年3月に発効しました。
核戦争が起き破滅的な結末を迎えることは今日まで避けられ、戦略核が冷戦時代からは大幅に削減されました。核爆発を伴うあらゆる核実験を禁止するCTBT条約が成立しましたが、いまだに発効していません。核保有国は使える核兵器(小型核)の開発に力を注ぐなど核軍縮は進展していません。
核兵器禁止条約
核保有国と核の傘の下にある国以外の国が、核兵器の開発、実験、生産、取得、保有、貯蔵、核兵器の受領、核兵器の使用、保有、核兵器による威嚇などを全面禁止する「核兵器禁止条約」を作り、2021年1月に発効しました。
ヒバク反対キャンペーンの取り組み
私たち「ヒバク反対キャンペーン」は発足当時、1995年に「核実験の永久停止を求める国際署名」に取り組み、国連の軍縮会議に4万筆を超える署名(フィンランド、マーシャル諸島など海外から約9000筆)を提出し、フランス、中国の核実験、アメリカの未臨界核実験に反対する活動にも積極的に取り組んできました。
そして今、この「核兵器禁止条約」の発効から、核兵器の法的禁止、今後の核廃棄に向かって、ヒバクシャ、世界の反核運動と連帯し「ヒバクシャ国際署名」に賛同し、その署名の拡大に取り組みます。
私たちはまた、日本政府に核兵器禁止条約への署名・批准を求め、北東アジアの非核化、「非核3原則」の法制化などを求め、「核兵器禁止条約の署名・批准」と「非核三原則の法制化」を求める署名の拡大に取り組みます。