喜友名末子さんからの支援の訴え、支援する会の発足に至る経過報告、喜友名正さんの過酷な被曝労働についての報告、を受けて、今後、全国署名・厚生労働省交渉を両輪とする支援の取り組みを行うことを確認しました。
喜友名末子さんより皆様へ支援の訴え
夫、正は、1997 年、原発の検査員として就職する前は、大手家電メーカーの技術社員として25 年間勤めてきました。同メーカーでは、営業、販売、修理部門等順調に業務をこなし、順風満帆な日々を送っていました。
ところが、同メーカーにおいては、長期勤続者の早期退職制度があり、夫は、熟慮の結果、退職することを選びました。家族としては、まだまだ若いし、もっとその会社に勤めてもらいたかったのですが、夫の決意が固かったために、同意せざるを得ませんでした。
退職後は、バブル経済の崩壊にさしかかっている時期で、いろいろと就職活動をしていましたが、定職につくことができず、たまにある日々雇用の仕事をしていましたが、収入は不安定でした。
そういった状況の中、職安から紹介されたのが、原発の検査業務でした。夫は、早速就職し、原発で業務があるたびに沖縄から出かけていくという生活が6 年あまり続きました。
私も、夫の両親やその他の親族も、この仕事については、大変危険だとの思いから、猛反対をしました。夫が仕事を始めたあとも、帰ってくるたびに、放射線被曝の危険があるからやめてほしいと言いました。しかし、夫本人は、いたって軽く考え、国の基準で検査をやっているから大丈夫だと軽く受け流していたようにも思えます。私は、仕事の話になると喧嘩になってしまうので、詳しく仕事の内容を聞くことはありませんでした。
夫は、もともとは健康な人でしたが、原発の仕事を始めて3・4 年たつと、体の抵抗力が落ちたのか、風邪をひきやすくなり、常時体調が芳しくないと訴えるようになりました。会社では定期的に健康診断があったようですが、どのような状態、数値であるか、本人に伝えられていたか疑問でなりません。
夫が最後に体調を崩して退職を余儀なくされた後、いろいろな病院を受診しても病名も分からず、最終的に琉球大学病院で悪性リンパ腫と診断されて、闘病生活に入りました。苦しい闘病の中、短期間で絶命したことは、本人にとっても、また家族にとってもつらいことでした。
なぜ、このような危険な業務についてしまったのか。今となっては取り返しがつかず、後悔しても後の祭りです。たとえ給料が安くても普通の仕事に就いていれば、収入は少なくても幸せな家庭生活が送られていたでしょう。命あっての社会生活であり、命がなければ全て無です。
夫が大変な被曝に晒されていたということは、夫の死後、初めて分かったことです。原発の、国民の目に見えないところで働く業務の閉鎖性、秘密性が、夫のような原発被曝による労災を引き起こしたのではないでしょうか。
国のエネルギー確保という大義名分の下、このような目に見えないところで働く多くの労働者がいるということを国民に知らしめるとともに、安全、安心のエネルギー政策を推し進めることが、国の責務だと考えます。
閉鎖性、秘密性を打ち破り、全てを公開することが、夫のような事故を再発させない最も有効な手段だと、国は肝に銘ずるべきであると思います。
今回、厚生労働省は、労災不支給の見直しに向けて、協議検討を開始するとのことです。夫の死が、放射線被曝と因果関係があるということは、私のような素人でも直感するところです。これまでの国の考えを見直し、労災と認定するよう、強く求めていきます。
今回、全国の多くの方々からご支援をいただけることになり、大変心強く思います。心から感謝申し上げます。今後も、夫の無念を晴らすことができるその日まで、頑張っていきたいと思いますので、どうか暖かく見守ってくださいますよう、お願い申し上げます。
場所・・・アピオ大阪 205号
(大阪市中央区森ノ宮中央1-17-5 JR森ノ宮、地下鉄森ノ宮)
日時・・・9月24日 午後1時30分~4時
経過報告・・・・・・・・・・金高弁護士
支援の訴え・・・・・・・喜友名末子さん
支援の取り組み・・・・支援する会事務局
講演 喜友名正さんの被曝労働と悪性リンパ腫
村田三郎(阪南中央病院医師)
被曝労働者の労災認定に向けて
片岡 明彦(関西労働者安全センター)