長崎被爆者・山科和子さん 「戦争の素顔」スピーキングツアー(2003/11/9~20)
山科和子スピーキングツアー
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原水禁・プレスリリース
(6)山科和子さんの略歴
1922年 佐賀県久保田駅長の官舎で生まれる。
翌年9月1日、東京市阿佐ヶ谷で関東大震災に遭遇。
1939年 父が長崎駅長に任命され、一家9名、華やかに迎えられて長崎駅に降り立つ。
1945年 長崎市浜町で被爆、山里町の自宅に帰る。父母は真黒焦げの死体で横たわり、弟妹は行方不明。
以後、死体とともに地面で寝て暮らす。あの夜空の光景は今でも瞼に焼きついて忘れられない。
8月17日、父母の骨を胸に、ひとり長崎を去る。
下痢・嘔吐・高熱のため福岡市九大付属病院に入院、別府温泉にて療養。
1963年 全身の皮膚が黒変、兵庫県立病院に入院。
1982年6月 第2回国連軍縮特別総会のため、ニューヨークへ。ロスアラモスの核研究所、ハワイ等を回る。
1986年1月~9月 体調を崩し、10キロやせ、脱水症状となる。入退院を繰り返し、8月に両目の手術をする。
被爆者として放射能の恐ろしさに目覚め、反核・草の根運動の証言者としてあちこちの学校で体験を語り続けている。