SPANの報告から抜粋:ロングアイランド大学のイサック・ジェイムズ・ベーカーの報告

山科和子スピーキングツアー
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 以下はSPANのホームページに掲載された「証言 戦争とテロリズムがどのように人生を変えてしまうのか」の、ロングアイランド大学(LIU)のイサック・ジェイムズ・ベーカーの記事の紹介部分です。

 これはスピーキング・ツアーが終わった後に、シーワンハカ(?)のLIU学生新聞に掲載されました。
 LIUでの「戦争の素顔」イベントについて、バーカーはこう書いています。「…集会は最高にすばらしかった。よくやった。このイベントについての記事を書けるなんて、ほんとうに名誉なことだ。」


 戦争の素顔   長崎の被爆者、LIUを訪問

 山科和子さんはテーブルの上に4羽の折り鶴を置き、その後ろに座って話しをされた。
放射能障害による腰痛症のために、長い間立って話すことができないのだ。「亡くなった私の家族の代わりに、この4羽の折り鶴を連れてまいりました。」と、通訳を介して語った。
 山科さんは、米軍が1945年8月に日本の長崎に投下した原爆の生存者である。ピースアクション学生ネットワーク(SPAN)が企画した「戦争の素顔」と題するスピーキングツアーにスピーカーのひとりとして招かれた。
 11月12日火曜日に、ツアーはLIUにやってきた。この訪問の受け入れをしたのは、LIU進歩的ネットワーク(Progressive Netwaork)、英語と政治科学学部、Honors Society(学長とか)である。このイベントを通じて、学生や学部は戦争の現実と残虐性について、個人の体験に基づく証言を聞くことができた。

 山科さんの家は爆心地から300メートルのところにあったが、原爆投下時には彼女は外出中だった。彼女は怯えながら道もわからないまま、とにかく市の郊外の山手へと避難した。そして、家に戻ってはじめて、家族が亡くなったことを知ったのだ。
 「家の者なのかどうかもわからないほど変わり果てた姿でした。」と、彼女は聴衆に語った。「黒焦げになって、骨だけになって、黒ずんだ遺体が横たわっているだけだったのです。」
 山科さんは家族の遺体の側に寄り添うようにして数日間を過ごしたが、そこに残っている放射能が自分の身体を蝕んでいるとは知らなかった。

 「私は両眼を失いました。」と、自分の顔を指差して話された。「この眼は人工の眼(訳注:レンズのこと。山科さんは白内障になり手術で両眼の水晶体を人工レンズに置換されています。)なんです。歯は全部抜けました。骨も変形しています。」と、手を挙げて曲がって変形した指を見せてくれた。
 「被爆は58年前のことです。」と、山科さんは語る。「それでも、戦争は今も行われているのです。」

 山科さんの恐ろしい被爆体験のお話しに加え、英国のミラン・ライ氏が、米国による今回のイラク戦争について話をした。
 ミラン氏は「ワイルダネス(wilderness:荒野、精神・社会などの荒廃した状態という意味)の声」という平和団体の英国支部の創設者のひとりである。彼はイラクを4回にわたって訪れ、最近、「変わらぬ政権」という題のイラク戦争に関する著作を書いた。
ライはイラク訪問で目の当たりにした、戦争の恐ろしさについて、聴衆に語った。
 ライは多くの負傷したイラクの人々を訪ねたが、「病院に入院している人々に『なぜあんた達はこんなことをするんだね』と、面と向かって問いかけられた時ほど恥ずかしい思いをしたことはなかった。」と語った。
 ライは、イラク市民の被害者を襲った数多くの悲劇について記した自分の著書「変わらぬ政権」から、いくつか引用して読み上げた。イラクのファルージャの学校の校舎の外で、13人の市民が射殺された事件について、詳細に語った。また、ファルージャの賑やかな市場を米国のミサイルが誤射した事件についても語った。
 「単発の事件なんてのはないのです。」と、市民の死者を出した他の悲劇についても証拠を上げて報告しながら彼は語った。「イラクでは、ちょっと街をうろついただけでも、殺人部隊に狙われるかもしれないのですから。」

 集会では「9.11平和な明日を求める家族達」(Families for Peaceful Tomorrows)のバレリ・ルツニコフスカも発言した。

Peaceful Tomorrowsはマーティン・ルーサ・キングの言葉「戦争は、平和な未来を彫り出すのに優れたノミではない」からつけたそうだ。この団体に参加する100人のメンバーは、全て9.11の悲劇で家族を失ったが、ルツニコフスカさんが述べたように「悲しみを戦争や報復への呼びかけに利用されることを望んではいない。」
 ルツニコフスカさんは、あふれる涙を押さえながら、自分の甥が9.11の世界貿易センターの攻撃で亡くなった様子を語った。
 「(戦争やテロは)破壊の顔です。」と、彼女は言った。そして、山科さんの方を向いて「これは復讐の顔なんです。これが暴力の悪循環なのです。そのことが解りさえすれば、だれも戦争なんか望まないですのにね。」と、語りかけた。

 集会を終え、山科さんは通訳に助けられながら、折り鶴をテーブルから片付けておられた。山科さんはこれらの大切な家族の形見とともに、ロングアイランド、ニュージャージー、ワシントンDCへと、ツアーを続け、日本に帰国される。
 日本でも、山科さんは学校を訪問し、自分の経験を語り、子供達とともに平和を願う活動をされている。

 「私が学生や生徒達に話をするのは、またその子達が自分の子供達に、戦争をやっちゃいけない、平和な世界をつくらなければと、語り継いでくれると思うからです。」と、山科さんはおっしゃった。

イサック・ジェームズ・ベーカー

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